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文化財
指定文化財
【21】 岡寺楼門 ※奈良県指定文化財
名称 岡寺 楼門
所在地 明日香村岡806番地
種別 奈良県指定 重要文化財(建造物)
指定年月日 昭和47年3月8日
管理者 岡寺

 

入母屋造、本瓦葺の1間1戸の楼門で、別名・鐘楼門。約2.3m角の小楼門で、上階に鐘をつるしたものである。建築年代は明確でないが、上階が江戸時代初期に改築され、下階は南北朝時代の建築様式を伝えている。

 

 

【22】岡寺本堂 ※奈良県指定文化財
名称 岡寺 本堂
所在地 ---
種別 奈良県指定 重要文化財(建造物)
指定年月日 昭和62年3月10日
管理者 岡寺

 

桁行5間(約14.3m)、梁行3間(約12.2m)の入母屋造、本瓦葺妻入とされ、妻正面には向唐破風が設けられている。本尊は、如意輪観音坐像で塑像としては日本最大で、奈良時代後半の作である。

 

 

南淵請安先生の墓
【23】 南淵請安先生の墓 ※明日香村指定文化財
名称 南淵請安先生の墓
所在地 明日香村稲淵
種別 史跡
指定年月日 昭和52年4月1日
管理者 大字稲淵

 

南淵請安は渡来人の血をひく学者。小野妹子に従って中国に渡り、33年間隋・唐に学び帰国した後、儒学など大陸の最新知識を人々に教えていた。 その名が現在に伝わっているのは、中大兄皇子が中臣鎌足と蘇我氏打倒の策を練るさい、敵に悟られぬよう、請安の塾に共に通う行き帰りに謀議を行ったためである。 請安が蘇我氏打倒後の大化の改新に関わっていた形跡はなく、あるいはこのころには没していたとも考えられる。歴史の老脇役とでもいったところか。それでも彼のような留学生が持ち帰った知識が飛鳥の歴史をリードしたことを考えると、時代を象徴する人物、といえる。 竜福寺内にあるその墓は、飛鳥時代の遺跡とは認められていないが、いわばその記念碑である。

 

 

【24】 豊浦寺跡 ※奈良県指定文化財
名称 豊浦寺跡
所在地 ---
種別 史跡
指定年月日 昭和52年3月22日
管理者 向原寺

 

甘樫丘の北西麓の豊浦にあり向原寺とも広厳寺ともいわれ、県の史跡になっている。また、このあたりは推古天皇の豊浦宮や小墾田宮のあった所とも伝えられている。「日本書紀」によると、欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。礼拝の可否を問うたところ、物部、中臣の諸氏は異議をとなえ、蘇我稲目がひとりこれに賛意をとなえたため、稲目はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。しかし、その後悪疫が流行し、物部氏、中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため仏像を難波の堀江に流しすて寺は焼きはらわれたといわれる。後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。その頃は、一名建興寺ともいわれた。豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。平城遷都とともに新都に新寺が営まれたが旧寺もいぜん盛えた。しかし平安時代にはかなり寺運が傾き、頽廃の途をたどったといわれる。現在は、江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれる。門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。昭和32年(1957)、昭和45年(1970)の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され、平成5年(1993)には金堂が南北15メートル、東西17メートルの規模であることが判明した。また南方では広場状に10メートル近くの石敷遺構が確認されているが、全容の解明は今後に残されている。

 

 

【25】 人浮刻塼 ※文化財保護法による指定文化財
名称 天人浮刻塼(天人文甎)
所在地 ---
種別 国指定 重要文化財(考古資料)
指定年月日 明治30年12月28日
管理者 京都国立博物館 (所有者 岡寺)

 

縦・横39.4cm、厚さ6cmの土製である。立ち上がりの輪郭をとった方形盤面中央いっぱいに、大きく天女を浮き彫りで表している。両膝をつき両手をささげているが、その手には天衣が握られている。膝を屈して坐った形ではあるが、風になびいた天衣のかろやかな曲線からは、天空を飛翔している感じを受ける。もと岡本宮の装飾として使われた腰瓦と推定され、現在は、京都国立博物館にて保管されている。

 

 

【26】 石造須弥山石 ※文化財保護法による指定文化財
名称 石造須弥山石
所在地 ---
種別 国指定 重要文化財(彫刻)
指定年月日 昭和55年6月6日
管理者 国 (奈良文化財研究所 飛鳥資料館)

 

須弥山とは、仏教世界において世界の中心にそびえる山である。現在3石が遺存しているが、文様と内部のつながり具合から、もとは下の第1石と第2石の間にもう一つの石があったと考えられ、4個を積み上げると高さ3.4mに復元できる。『日本書紀』には4度登場する「須弥山像」にあたることに疑いなく、第1石の下に穿たれた細い円孔を通じて内部に水を溜め、第1石の山形文様の隙間にある小穴から水が噴き出す構造で、石人像と同じ噴水施設である。

 

 

【27】 石造男女像 (石人像) ※文化財保護法による指定文化財
名称 石造男女像 (石人像)
所在地 ---
種別 国指定 重要文化財(彫刻)
指定年月日 昭和55年6月6日
管理者 国 (奈良文化財研究所 飛鳥資料館)

 

花崗岩一石に、異国風の顔立ちと衣服をまとう男女が寄り添う姿を表現していて、男の足の下から穿たれた細い孔は、男が口にする大きな杯に貫通している。孔は途中でY字形にわかれ、大きく開けた女の口にも通じている。地下に埋設した管を通じて、口や杯から水があふれ出る噴水施設である。

 

 

飛鳥川飛び石
【28】 飛鳥川の飛び石 ※明日香村指定文化財
名称 飛鳥川の飛び石
所在地 明日香村稲淵
種別 明日香村指定 史跡
指定年月日 昭和52年4月1日
管理者 明日香村

 

飛鳥川上流流域には、過去5~6箇所の飛び石橋が存在したが、その多くは流されたりして良好に残るのはこの1箇所だけである。『万葉集』に、「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」(巻11-2701)と歌われた「石橋」かどうかは不明だが、万葉の時代に男女の心の繋がりを石橋に託して愛情表現していたようである。

 

 

川原寺跡
【29】 川原寺跡(国指定史跡)
名称 川原寺跡
所在地 明日香村川原
面積 73,839平方メートル
指定年月日 大正10年3月3日

 

川原寺は、創建の年代、経過については明らかではないが、飛鳥朝極めて重要な意義を持っていた寺院である。 まず、創建の時期については敏達天皇13年説、斉明天皇元年説、斉明天皇7年説、天武天皇朝あるいは奈良時代の宝亀5年説などがあって、必ずしも明確でない。しかし、天武紀2年3月の条に「是月聚書生始写一切経於川原寺」とある。したがって以上の内容と合わせて、天武期に存在したことは確かである。ただし、従来からも問題となっている孝徳紀白雉4年6月の条の僧旻法師の遷化に関する記事の中に「安置川原寺」とあるが、その割註に「或本云在山田寺」とあることから、川原寺か山田寺かどちらか不詳である。しかし、天武朝以後、奈良朝にかけてかなり勢力をもった寺院であったことは容易に知られる。すなわち天武紀14年8月甲戌朔丙戌に「幸于川原寺施稲於衆僧」とあり、同9月丁卯の天皇の病気平癒祈願のために「桶経於大官大寺・川原寺・飛鳥寺。因以稲納三寺」とあり、朱鳥元年4月壬午の条には「為饗新羅客等、運川原寺伎楽於筑紫、仍以皇后宮之私稲五千束、納于川原寺」とあり、川原寺に伎楽が置かれていたことがわかる。また、同5月癸亥には「天皇体不安、因以於川原寺説薬師経」、同6月丁亥には「勅遣百官人等於川原寺為燃燈供養、仍大斎之悔過也」とあり、9月辛丑には「悉集川原寺為天皇病誓願」とある。したがって天武天皇の病気平癒を祈願するため、川原寺において盛んに法会が行われたことが知られる。その甲斐なく天皇崩御の後、持統即位前紀12月乙酉の条に「奉為天渟中原瀛真人天皇設無遮大会於五寺」とあり、その中に川原寺の名が挙げられている。こうしたことより川原寺は天武天皇と特別な関係にあったことが推定される。

 

 

【30】 竜福寺層塔 ※明日香村指定文化財
名称 竜福寺層塔
所在地 明日香村稲淵
種別 明日香村指定 建造物
指定年月日 昭和53年4月1日
管理者 竜福寺

 

凝灰岩製で現存する高さは1.8m。もとは五層と考えられ、現在は三重目までと四重の軸部が残り、基礎部の四方に細字で銘文が刻まれているが、長年風雨にさらされていたので摩滅がひどく、難読である。
地元では、竹野王の撰文によることから「竹野王の石塔」と呼ばれ、在銘(天平勝寶3年-751年)石造層塔では日本最古であるが、銘文の内容についてはまだ検討を要する。

 

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