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檜隈安古陵

今回は現在宮内庁によって文武天皇陵に治定されている塚穴古墳について紹介したいと思います。


解体工事に向けて発掘調査が行われている高松塚古墳の南方に鬱蒼とした森が存在しています。ここは現在、宮内庁によって文武天皇檜隈安古陵(ひのくまあこのへのみささぎ)に治定されています。


陵墓内には立ち入ることはできませんが生け垣の隙間から木立の中に墳丘状の高まりを見ることができます。


墳丘は直径約28m、高さ約2m程の円墳とされており丘陵の緩やかな南側斜面に築かれています。この古墳が文武陵に治定された契機は谷森善臣が現文武陵の南西に「アンドク」という小字が残っており、地元御園村にある水帳にはその場所が「アンコウ山」と記されていることから文武天皇の檜隈安古陵の「安古」がなまったものではないかと考証したことに端を発しています。この小字「アンドク」の北東には塚穴(俗称ヂョウセン山)という小字の場所があり、そこには南に開口する横穴式石室が存在していましたが里人によって破壊され畑として開墾されていました。しかし、元治元(1864)年6月になってこの場所が文武陵の檜隈安古陵である可能性が高いということとなり破壊された古墳の修復が行われ、翌年に工事が完成しています。現在、森の中にある墳丘はこの時に修復されたものと考えられます。


この文武天皇については天武天皇と持統天皇の孫で『続日本紀』によると慶雲4(707)年6月15日に亡くなっています。そして同年11月12日には飛鳥の岡で火葬され、同月26日に檜隈安古陵に葬られたことが記されています。平安時代に記された『延喜諸陵式』にも「檜前安占岡上陵」に葬られたことが記されています。実際、「安古」と呼ばれた場所が檜隈のどこかはっきりしたことがわかりませんが江戸時代には高松塚古墳の周辺と考えられていたことが文献史料等から伺えます。それは京都所司代の命を受けた奈良町奉行所が文武陵を探索した結果、高松塚古墳がその候補に挙がり元禄11年に墳丘の周囲に竹垣を巡らしています。また並河永は『大和志』の中で中尾山古墳こそが文武陵であると考証しています。更に『大和名所図会』には両方の説を採用するなど高松塚古墳周辺が注目されていたことがわかります。その後、谷森善臣が御園村の小字名から「アンドク=アンコウ=安古」であるという説を出してからは現在の場所が最有力候補地となり、明治14年に文武天皇檜隈安古陵に治定され現在に至っています。この現文武陵については飛鳥にある天皇陵とされる古墳のすべてが八角形墳であることや文武天皇が火葬されていることなどを考慮すると現陵と考えるよりも北方にある中尾山古墳の方が有力です。中尾山古墳は対角長19.4mの八角形墳で一辺90cm四方の石槨内には骨蔵器が納められていたと考えられています。この骨蔵器は現在失われていますが明治時代に和田村から出土したとされる金銅製四鐶壺が本来、中尾山古墳から出土したものではないかと推定されています。このように現文武陵は一度破壊された古墳を修復して陵墓に治定されていることや古墳の立地や埋葬施設の形態等から判断して中尾山古墳の方が文武天皇の檜隈安古陵の蓋然性が高い古墳と考えられます。

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