文化財
明日香村発掘調査報告会2007
明日香村教育委員会

調 査 地:奈良県高市郡明日香村大字平田444
調査原因:石室解体修理に伴う事前調査
調査面積:43.2㎡
調査期間:2006年10月1日~2007年9月4日
はじめに

この調査は石室解体に伴い、大字平田444で行った調査である。調査は文化庁の委託を受けた奈良文化財研究所に、橿原考古学研究所・明日香村教育委員会が共同して実施した。
高松塚古墳は昭和47年に発掘調査がなされ、その調査によって石室内に壁画が描かれていることが判明した。壁画は石室内全面に漆喰を塗り、その上に玄武・青龍・白虎・星宿・日月像・男女子群像が描かれている。本格的な壁画古墳としては、我が国初の確認であり、その保存と管理は国へと委ねられることになった。石室の前面には保存施設が設けられ、石室と外界との緩衝空間となり、狭小な石室内では、壁画の剥落を防ぐ修理が10数年をかけて実施された。
しかし、壁画の発見から30数年を経て、石室内の保存環境は著しく変化をしていた。石室温度が上昇し、カビなどの微生物やムシなどが頻繁に出現するようになった。さらに壁画や壁面の漆喰も劣化が激しいことが判明した。このため文化庁は検討会を設置し、壁画保存へ向けて、様々な方法を検討したが、現地保存は困難と判断され、石室の解体修理が選ばれた。
石室を取り出すための調査区は、墳丘の掘削を最小限にとどめ、作業の安全性を確保するために、二段掘りとした。調査面積は上段7.2×6m、深さ2.7m、下段5.2×4m、深さ2.5mの43.2㎡である。

上段調査区の発掘調査

上段調査区は7.2×6mの調査区で、墳頂部から深さ2.7mまで掘削した。発掘調査では古墳築造にかかわる、いくつかの新見知を確認することができた。

墳丘は土を突き固めた版築工法で築かれている。突棒で固めながら積み重ねたもので、一層の厚みは3~5cmである。墳丘の下半部の版築面には各層にムシロを敷いた痕跡が見られる。これは斜面に版築を施す際に、ムシロの摩擦を利用して土がずれずに、版築を行うためと考えられる。墳頂下2.3mで、石室を覆う白色粘土の版築層が土饅頭のように検出された。上部の版築層に比べると、2倍ちかい硬度をもち、石室の構築と一体的に積まれている。

墳丘の版築層を掘り下げる過程で、版築層を突き破る多数の地割れ・亀裂が確認された。この亀裂内には柔らかな土が充満しており、そこに植物の根が延びていき、さらにそれが腐ると空洞となっている。

これらと同時に、昭和49年に設置された保存施設の取り合部の設置状況についても確認した。取り合部の屋根は発掘区の形状に合わせて設置している。屋根と旧発掘区の隙間となる部分には、新たに凝灰岩切石ブロックを並べ、隙間を塞いでいる。さらにこの切石を覆うように粘土を貼り付けている。この上に互層に土を積み、ポリプロピレン・シートを敷いている。しかし、設置後30数年を経ていることもあり、粘土が劣化してひび割れ、そこに隙間が生じていた。この隙間からムシや水が侵入していることも明らかとなった。

下段調査区の発掘調査

下段調査区は上段調査区からそれぞれ1m控えた5.2×4mの調査区で、さらに深さ2.5m掘削した。この発掘調査では古墳築造や石室構築にかかわる、いくつかの新見知を確認することができた。

下段調査区では白色版築層で、約70cm下にある石室を堅固に保護している。版築の一層の厚みは3~5cmで、突棒やムシロの痕跡が同様にみられる。突棒の痕跡は径4cm前後の窪みで、高い方から低い方へと規則正しく突かれており、作業単位や施工順序が伺える。

墓道部(棺を石室へと運び入れる通路)は昭和47・49年の調査でほぼ完掘されていたが、わずかに残る北西隅部を調査した。墓道は白色版築層から掘り込まれており、再び版築で丁寧に埋め戻され、さらに墳丘全体を版築で覆っている。墓道埋戻しの版築層には径4.5cmの突棒痕跡が残されており、壁面には掘削に使用された工具の痕跡も認められる。墓道の幅は約3m(10尺)である。また、地震による亀裂は石室まで達しており、石室の輪郭に沿って亀裂が走っており、そこから放射状に広がっていることがわかる。地震によって石室が揺さぶられ、その影響を最も受けやすい石材の継ぎ目や石室と版築の境界に亀裂ができたと考えられる。

石室は床石4石、北壁石1石、東西壁石各3石、南壁(閉塞)石1石、天井石4石の凝灰岩切石で構成されている。石室内部の規模は幅103.5cm(3.5尺)、奥行き265.5cm(9尺)、高さ 113.4cm(3.8尺)で設計されている。天井石は南から3石は幅180cm、長さ90cm前後、厚さ60cm程であるが、北端の天井石は幅160cm、厚み50cmと小さい石材を使用しており、何らかの理由により、転用石を利用したものと推定される。一方、壁石の厚みは36~50cmと不均一で、安定が悪い。

石室の構築過程

これらの発掘調査の過程で、石室の構築方法が判明した。床石は南北4石で構成されており、互いに合い欠きによって組み合っている。この合い欠きの構造によって、床石は南から北に向けて設置していったことがわかる。次に、床石の上面まで版築によって土を積み上げ、細部の加工を施す。特に、床石上面は石室内にあたる部分を削り残し、壁石が建つ部分を一段低く削っている。この加工時に、水平を設定するための水準(水測り)の杭跡が床石の周囲に残されており、その時にでた凝灰岩粉が周囲に大量に散布されている。壁石にも合い欠きが施されており、その構造から、北壁を設置後、東西の壁石を北側から順に設置していることが判明している。この時、南側の閉塞石は一端閉められている。その後石材の隙間を漆喰で目地止めし、同時に周囲を壁石の上面まで版築で積み上げていく。この面を利用して天井石を運び、組み立てている。天井石にも合い欠きがあり、南から設置していったことがわかる。東西側面の下端には各二つずつ抉り穴が掘られており、石材移動の微調整のために利用されたと考えられる。さらに目地を漆喰で止め、白色版築で全体(南天井石小口)を覆い隠す。

この後、墓道を掘削し、その床に並べていた4本の道板を利用して、一端閉じていた閉塞石を開封する。さらに石室内全面に漆喰を塗り、壁画を描く。南の閉塞石は別の場所で漆喰を塗り、朱雀の壁画を描いている。石室内には棺台を設置、漆塗木棺を納棺して葬送儀礼を行う。儀礼終了後に再び閉塞石で封鎖して、墓道を版築によって埋め戻す。さらに全体を赤褐色の版築によって覆い、古墳が完成する。

壁画の保存影響

発掘調査では古墳の学術的な成果の他に、壁画の保存環境変化や地震の痕跡についても判明してきた。発掘調査前、石室の3次元測量によって石室が歪みながら傾いていることが判明していた。床石の高さで比較すると、北東隅よりも南西隅は7cm程低くなっている。石室は水準杭の発見によってもわかるように、本来は水平に設置されていたと考えられる。よって、この傾きは設置後に変化が起こったことになる。このことは石材と石材の隙間が大きく開いていることからも推定できる。その要因としては、すでにみた版築を貫く亀裂でもわかるように、巨大な地震による影響と考えられ、奈良盆地では90~150年周期で襲う「南海・東南海地震」に起因すると考えられる。その時期は鎌倉時代の盗掘孔の時期よりも新しいことから、カヅマヤマ古墳の石室を崩壊させた正平南海地震(1361年)の可能性がある。

さらにこの地震による亀裂は石材間に隙間を生じさせ、石材外側の版築との間にも隙間を生じさせている。これまで約30年間に石室で発生したカビは、その都度、内部から除去・薫蒸等を行っていたが、この隙間を通して石材の外側までカビが広がっており、ここがカビの温床となっていたことがわかる。さらにこの隙間を通ってムカデやゲジやクモなどが、石室内に侵入し、カビをまき散らした一因にもなっていた。

総括~まとめと今後の課題

今回の解体修理は、壁画を修理するために、石室ごと解体・搬出することが主目的であるが、その掘削される土の中には、重要な情報がたくさん包蔵されている。その情報の中には、高松塚古墳の築造方法や築造技術などの考古学的情報と、壁画が劣化したりカビやムシの侵入・繁殖する原因などの情報も含まれている。これらを解明することも重要な使命である。

高松塚古墳壁画の発見は考古学や文化財を一般に認知させ、その保存に国家プロジェクトとして、当時の最新の科学技術を駆使して実施されたことが、文化財保存の理念の確立につながっていた。しかし、発見から35年を経て、壁画は大きく劣化し、石室内の保存環境も著しく変化した。これらの原因については多くのことが指摘されている。漆喰層の物理的な劣化、壁画修理やカビの除去における使用薬剤の影響、石室の保存環境の維持など壁画の保存技術に困難な課題が多くあり、我が国において初めての経験であることから試行錯誤の連続であった。この他にも石室内点検時における損傷事故やその修復の未公表、墳丘と壁画の管理体制の違いによる情報の共有ができなかったことなど、管理体制や情報公開の不備も壁画を現状のように劣化させた一因である。また、壁画古墳が我が国に二つしかない希有な存在であったことから、保存施策に英断ができず、当初の方針を引きずっていたことも問題である。例えば、10年ごとに総括・検証を行い、次の10年の保存方針を検討することも必要であったのであろう。

今回の高松塚古墳の保存問題は、文化財保存の理念と技術、情報公開や管理体制など様々な課題を浮き彫りにした。これらは忘れかけていた、文化財と私たちのあり方を再考させるものである。今、再び国家プロジェクトとして壁画を守り、次の世代へと伝えていく努力が始まっている。多くの課題や反省を乗り越えて、もう一度文化財保存の理念の構築が始まった。

指定文化財
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