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今回は、岩屋山古墳について紹介したいと思います。
岩屋山古墳は大字越に所在する終末期古墳です。周辺には牽牛子塚古墳や真弓鑵子塚古墳、マルコ山古墳等、多くの後・終末期古墳が点在しています。明治時代にはイギリス人のウイリアム・ゴーランドが来村し、岩屋山古墳の石室を調査して「舌を巻くほど見事な仕上げと石を完璧に組み合わせてある点で日本中のどれ一つとして及ばない」と『日本のドルメンと埋葬墳』の中で紹介しています。
昭和53年には史跡環境整備事業に伴う発掘調査が橿原考古学研究所によって実施されています。調査の結果、墳丘は1辺約40m、高さ約12mの2段築成の方墳で墳丘は版築で築かれており、下段テラス面には礫敷が施されていることが明らかとなりました。埋葬施設については石英閃緑岩(通称、飛鳥石)の切石を用いた南に開口する両袖式の横穴式石室です。規模は全長17.78m、玄室長4.86m、幅約1.8m、高さ約3mで羨道長約13m、幅約2m、高さ約2mを測ります。壁面構成については玄室が2石積みで奥壁上下各1石、側石上段各2石、下段各3石で羨道部分は玄門側が1石積みで羨門側が2石積みとなっています。天井石については玄室1石、羨道5石で構成されています。
こういった構造をした石室は岩屋山式と呼ばれており、奈良県内では小谷古墳(橿原市)や峯塚古墳(天理市)等でも確認されています。特にムネサカ一号墳(桜井市)の石室は岩屋山古墳と同じ設計図(規格)をもとに築造されたと考えられており両者の関係が注目されています。
また岩屋山式とされる古墳に使用されている棺については小谷古墳で刳り貫き式家形石棺が使用されており、ムネサカ1号墳でも凝灰岩の破片が多く出土していることから岩屋山古墳でも凝灰岩製の家形石棺が安置されていたと推定されます。排水施設については玄室内の礫敷と羨道の暗渠があります。これは玄室内の水が床面に敷き詰められた礫を伝わって下層にある集水穴に集まり、そこからあふれ出た水が羨道の暗渠排水溝を通って石室外に排水される構造となっています。更に羨門部の天井石には一条の溝が彫られており外から天井石に伝わった水が石室内に入ることなくこの溝の部分で遮るように工夫がこなされています。
石室内には古墳以外の遺構として長さ約2m、幅約90cmの中世の土坑墓が検出されており早くから石室が開口していたことが窺えます。このように中世から近世にかけて石室内を二次利用した例は仏塚古墳(斑鳩町)等でも確認されています。
石室内からは土師器・須恵器・瓦器・陶磁器・古銭等が出土しており、築造年代については7世紀前半頃と考えられます。
被葬者については斉明天皇や吉備姫王等が候補として挙げられています。
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